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明日の教会に向かって

主任司祭 松村 信也

 紅葉の秋、赤や黄色に染まった六甲山系をドライブすると、自然の美しさとその不思議に直面させられます。あの素晴らしい赤く染まったもみじや真黄色の銀杏の木、そんな美しい光景が、猛暑の夏に起因しているとは疑いたくなります。厳しさがあって、この素晴らしさが見られます。嘘のようなこの現実の中で、爽やかな風に頬を撫でられるとき、生かされていることの喜びと同時に、明日への希望を湧き立たされます。その希望を具現化するために、「どうすれば良いか」しっかりと現実を受け入れながら、前向きに歩むのが「今でしょ」。

 さて信徒使徒職、信徒の教会と言われて早、五十年が経とうとしています。ところが現実はどうでしょうか。どの教会も“司祭が不足しているから・・”、“司祭が高齢化したから・・・”といった本来積極的な信徒使徒職、信徒の教会であったはずが、「仕方がない」という消極的な信徒使徒職に変わり、信徒の教会になろうとしていないだろうか。

 先月やっと出版された「第二バチカン公会議公文書・改訂公式訳」、もう一度、公会議の精神の理解を深め、初心に戻ってということなのでしょうか・・・・。

 1965年に閉会した第二バチカン公会議は、多方面にわたり社会に開かれた教会の刷新がありました。そのための推進運動もたくさん全国で行われました。しかし、いずれも十分に果たされないまま、忘れ去られてしまったのです。何が原因であったのか?どうして継続することができなかったのか。忘れられた種々の運動は、その理由を明かされないまま消滅していった。三十年前、まだ運動が活発に行われていた頃、信徒使徒職について論評したことを改めて思い起こしてみました。

 「信徒だけで使徒職を遂行することは容易ではありません。したがって必ず、互いの養成が必要になりますが、過重な負担を課すことなく、丁寧な養成を心掛けなければならない事。そのためには@ 養成側の信徒に対する十分な理解。A 養成は信徒の霊的生活も大切にする。B 信徒使徒職に必要な基礎的育成。C バランスのとれた人間関係の育成。D 知的養成だけでなく『見、判断、行動』できる養成と調和と均整のとれた人間性の養成。E 個人のための養成ではなく、神の民の一員としてキリストの肢体としての養成、などを大切にしなければならないと言われていました。なぜなら『信徒によらなければ、教会が地の塩となり得ない場所と環境において、教会を存続させ活動的なものにすることが、特に信徒に与えられた使命なのである』(教会憲章33項)」からなのです。ところが三十年経った今、気づかされるのは;@ 司祭主導・聖職者中心主義 A 指導者層の西欧志向(指導・養成レベルの問題)B 司牧上の諸構造の均等化 C 場当たり主義、これらは信徒の養成留意点に弊害をもたらしていたのではないのでしょうか。

  司祭、信徒双方ともに痛みを分かち合いながら構造改革、刷新運動を推進してこそ信徒使徒職が可能になり信徒の教会が生じるのです。つまり、目標とする質的変化を生じさせるためには、大自然のように痛み苦しみを伴ってこそ、より美しく豊かなものが生まれてくるのではないでしょうか。

 信徒の養成は先ず、「楽しくあるべき、誰にでもよくわかる指導をするべき、学んだことを互いに確認できる」指導を心がけるべきでしょう。さあ、明日の教会に向かって勇気を持って前進しましょう。明日という字は「明るい特別な日」なんです。私たちに与えられる特別な日の為に、喜んで奉仕できるよう互いに楽しく信徒の教会作りに参画しましょう。

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