「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」(マルコ1:2-3)
待降節の初めに、わたしたちは「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫ぶ洗礼者ヨハネの声を聞きます。間もなくやって来られる主イエスが通るための道を、それぞれの心の中にしっかり準備しなさいというのです。そのために何をすべきでしょうか。大切なのは、神の前で自分の罪深さ認めること、そして悔い改めて神の御旨に自分を委ねることではないかと私は思います。
わたしたちの心が荒野だとすれば、そこにはたくさんの岩が転がっています。例えば、あの人だけは絶対に許せないという憎しみの岩、自分の思った通りに自分も周りの人も動かしたいと願う傲慢の岩、イエスの道をふさぐそれらの岩を取り除けるにはどうしたらいいでしょう。自分の力で取り除けようとすれば、岩はますます大きくなるばかりです。しかし、神の前にへりくだって自分自身も罪人であることを認め、人間の思いの浅はかさを知るならば、誰かへの裁きも自分たちの将来もすべて神の手に委ねられるでしょう。後は、神が全能の力を持って岩を取り除けて下さるはずです。
わたしたちの心はまた、でこぼこの山道、谷道にもたとえられます。山は傲慢、谷は卑屈さが作り出すものです。自分にはお金や能力がある、学歴や地位があるというようなことで自分を人より優れたものと思いこむ傲慢の山。それを砕いて平らにするためには、神の前に自分を置く以外にありません。全てを与えて下さったのは神であり、神はすべてを取り去られる力もまた持っておられることを知れば、おごり高ぶった心の山はしだいに低くされていくでしょう。
自分はダメな人間だ、生きている価値などないと思い込む卑屈さの谷も平らにしなければなりません。罪深く弱い自分を、神様がこれまでどれだけ大切に守り、はぐくんでくださったかを思えば、おのずと卑屈さは消えるはずです。逆に、自分はもっと偉い人間になれたはずだった、人から認められるはずだったという思いが残っていれば、卑屈さはいつまでも消えることがないでしょう。
自らの罪深さを自覚し、神の愛と力を信頼してすべてを神の手に委ねるとき、わたしたちの心の岩は取り除けられ、山や谷は平らにされます。憎しみや嫉妬、不安や恐れの岩を取り除け、傲慢や卑屈のでこぼこをならし、まっすぐな心でイエス様をお迎えしましょう。