昔から悪いことをした人に対して「謝れ」と人は怒鳴りつけ、物を奪った人に「返せ」と求め、大変悪いことをしたのに誤らない人に対して「死ね」と怒鳴りあげることがありました。場合によっては、親でさえも悪いことをした自分の子に向かって「死ね」ということがありました。それは断じて許されないことをした人に対する当然の怒りや憤慨の表れでした。
しかし、怒りをおさえ、落ち着いて考えた人間は、次のことに気が付きます。加害者に死んでもらうことによって被害者が受けた損失を補うことにはなりません。そこで有意義な償いを求めるようになります。物を奪った泥棒にはものを返せというのです。返せなかったら代わりにお金で弁償しなさいというでしょう。あるいは働くことによって償い、なんらかの形で被害者が受けた損失を埋め合わすようにしてもらいたいでしょう。
しかし、いくら加害者が償っても取り返しのつかないことがあります。子供たちが遊んで投げたボールで隣の家の窓ガラスを壊したら、お金を出して修理出来ますが、壊れたのが大切な思い出になる美術の作品だとすれば、お金を出してもなかなか補えないのです。一番取り返しのつかないのは、人の命を奪ってしまうことです。かけがえのない命を奪ったら、いくら弁償しても死んだ人がよみがえるのではないのです。加害者が死ぬことによって失われた命が取り戻せるのではありません。せいぜい被害者遺族の怒りをなだめることにはなるかも知れません。
このように償いたいのに償えないということに加害者が気づいて、はじめて本当の謝りをもって許しを願うようになります。それに対して、許しがたいのを許したいのになかなか許せない無力さを感じる被害者の心の中にも祈りが湧いてきます。良い人の上にも悪い人の上にも雨を送る神さま(マタイ5,45)に向かって、被害者も加害者も祈ってはじめて本当の許し合いがありえます。
このように被害者の改心と加害者および社会全体の癒しが成り立って、世の中で暴力の連鎖を断ち切ることができます。
ところが国家の手によって死刑執行がおこなわれてしまうと、このような改心と癒しの機会が奪われ、あくまでも社会の中で暴力の連鎖を断ち切ることが出来なくなります。悪に対して悪を返すならば、いつまでもその暴力の連鎖を断ち切ることが出来ないのです。聖書の言葉(ローマ書12,21)にあるように、「悪に対して善を返す」ことによって人間が人間に与えた傷が癒されるように願って、死刑のないように求めたいものです。