キリスト教の信仰の中心に、受肉されたキリストがある。それについて皆さん、誤解はしていないだろうが、私たちは正しく理解をしているだろうか?少し考えてみよう。
創世記からはじまり現在に至る人類の歴史の中で、人間には人間を救えないことがわかっている。神だけが人間を救えるのだ。そのような中で、あわれみの神は御子を私たちに与えて、救ってくださった。御子が私たちの目の前におられたのはたった30年余りだけであったけれども、美しい時間、素晴らしい物語として聖書に記録されている。そしてその最後に用意されていたのが十字架上の死、復活、そして昇天である。
受肉は30年間の試しであったともいえる。そして受肉されたキリストは行ってしまわれた。ナザレのイエスではなく、キリストにはもう会うことができない。
しかし、復活のキリストは今なお生きておられる。複雑で難しい現代の社会にあって、復活のキリストは私たちの中でどのように生きておられるか? 意識しているだろうか?
マタイ福音書25章に描かれているように、人々は問いかける。「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。」「主よ、いつわたしたちは、あなたが旅をされたり、裸でおられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。」「主よ、いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。」びっくりして問いかけるのだ。そして、答えはとてもシンプルだ。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。(25:40)』
復活のキリストは、人々の中にいらっしゃる。30年間受肉されたキリストもそこに息づいておられるのだ。誰でも出会う可能性がある。誰でも出会えるのだ。その出会いをつかみ、その出会いに揺り動かされ、私達は動き出さなくてはならない。その上に私たちの教会を建てるのだ。『こうして、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。(25:46)』
パウロは手紙の中でたびたび「あなた方はキリストの体です」と書いて人々を励ます。イメージとして捉えられがちだが、決して抽象的な表現ではない。神の、そしてキリストの体につながる自分を意識し、真剣にそれを受け取る。復活のキリストは生きていると信じて、生きていることを感じて暮らすのだ。
今でもある復活のキリストとの出会いをどういう風に活かすか? 私も皆さんもそのチャンスをしっかりつかみ、深く考え、動き出しましょう。