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                        操 り 人 形 の 踊 り             
                                                         J. マシア

 マス・コミや政治家などによって世論が操られている世の中では、「操り人形」の話が考えさせてくれる。「人形芝居の操り人形たちは意識を持っていた」とするたとえ話しである。人形たちは喜んで踊っていたが、自分たちの背中に糸がついていて、誰かが上から操っているということに気づいていなかった。ある時人形の「一人」が相手の背中についている糸に気づき、それを指摘する。そして自分も同じように糸に操られていることを相手から知らされる。自分が自由に踊っているつもりでいたが、踊らされていたのだということに気づき、操られているということを意識するようになる。
そのこと自体はひとつの解放であるが、糸を切ってしまえば、動けなくなるし、勝手に踊ろうと思えばそれもできない。そこで操られていながらも、操られるままにしておかずに、多少の抵抗をしながら人形たちは自分たちらしい踊りをしはじめた。

 この例えは、さまざまな形で操作されていることに気づかないで、自由でない
のに自由なつもりでいるという現代人の有様を示していると言えよう。目覚めて
自分たちらしい踊りをしようというのは、「意識の変革」と「解放の運動」であろう。

 ところで、このたとえに導かれてヨハネ福音書5、1-16をみなおしたい。

イエスは身動きのとれない中風患者に声をかけ、彼を束縛する律法の代わりに、真の自由と生きる力をもたらされる。抑圧されていることに気づかず、起き上がって歩くことのできる力が自分自身にあることを知らない人々に、イエスは「起き上がって歩きなさい」と言うのである。これは、民衆を解放するイエスの行動である。
 
 罪と定められるのは、この病人がいやされたことを喜ぶことのできなかった指導著たちである。
一人の人間が目覚めるということは彼らにとって都合の悪いことだった。ベトサダの池で、38年も病気で苦しんでいた人が、池の中に入れてくれる人を待っていた。しかし、イエスは病人の手をとって水に入れるのではなく、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と言う。「あなたが必要としているのは、水に入れてもらうことではなく、自分の病気を癒す力が自分の内にあることを信じることである」。イエスはその人に自信を持たせ、彼を解放された。

 あの池の回廊には、病気の人、目の見えない人、足の悪い人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた(3節)。この象徴的な言い方によって、身動きのとれない状態から解放されるのを待つていた当時の弱い立場にいた民衆の姿が表わされている。このように、イエスがもたらす生きる力は、「社会的不正からの解放とまことの自由へ」とわたしたちを呼びかけるのである。

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