「キリストは肉をもって現され、霊において正しく証せられ、」(テモテ3-16)
私たちキリスト者は、「キリストの受肉された」ことの本当の意味が分かっていないのではないでしょうか。
神様の霊が私たちの中に残されていることが分かっていないと思います。
父なる神は、愛ゆえにキリストをお遣わしになり、キリストは愛ゆえに受肉されたのです。
今でも愛があるところには、神様がおられるし、赦しがあるところに神様はおられるのです。
そして、互いに愛し合っているところにもキリストはおられるのです。
キリストは単に狭い、教会の中のごミサにだけでなく、それ以外のところにもおられることを知らない
信徒が多いのではないでしょうか。それでは信徒として狭いと言わざるを得ません。
キリストは、わたしたちの肉を取ってくださり、私たちを神にとりなし、神のご愛顧のうちに導き入れてくださいました。
日本という社会の中でも、たくさんのすごくいい人がおられます。キリストはその人たちの中にもおられます。
神様がいつでも、そして今も一緒におられることを信じなければなりません。
むしろ今、自分の心の中におられる神様の霊に導かれて、自分の判断とか、自分の信仰に動かされるものに従うことが大切だと思います。
「キリストの受肉」とは、神様の霊に従っているかどうかが一つの基準になると思います。
キリストは受肉することによって、私たちと同じようになられたが、私たちもキリストと同じようになるよう努めましょう。
ダニエル・コリンズ神父