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イエスの復活こそ、新生
                               
ホアン・マシア 神父

 私の書斎は南側の庭に面しているが、一本の桜の木が窓の真ん前に立っている。十二月、秋が終りに近づくにつれて葉が落ち、枯れた枝は冬を知らせる。冬至のころに、落ちていない葉は六枚しか残らなかった。無理してでも生き残りたかったみたいだが、やがて裸の木は年の暮れを迎えた。お正月の曙にぱらぱらと降りかかった初雪をかぶる桜を見てみると、春の前ぶれをほのめかすつぼみがあった。「雪・月・華」と、一言で言える日本では、月に照らされるつぼみこそ、死を超克する復活の姿のように思えてならない。

 イエスが今なお生きておられることを証して集うキリスト者にとって、「復活」はこの世の生命に生き返えることではなく、もはや死ぬことのない永遠のいのちの次元に入り、いのちの源なる神のうちに常に生きることを意味する。

 仏教者は花祭りでブッダの誕生を四月上旬に祝うが、地中海の国々では復活徹夜際のことを「花の過ぎ越し」(スペイン語でPascua floridaパスクア・フロリダ)と呼ばれる。仏教では一人ひとりの中に仏性があるというが、キリスト者たちは一人ひとりの中に、人を生かす聖霊の息吹があると信じている。

 「復活」はギリシャ語で「アナスタシス」というが、「新たに立ち上がり」、「眠りから覚める」、「昇天する」と訳される。葉っぱが落ち、枝が枯れかけて死んだかのような桜の木には、いのちがあり、死ねない何ものかがあった。だから、春になると、その死から生けるつぼみが生まれ出て、いのちが蘇る。

 復活の「復」という字よりも、「新・活」や「真・活」と書くほうがよい。復活する者がこの世での制約から解き放たれた身となって真のいのちに新たに生きるのである。「イエスは復活した」と言うよりも、「イエスこそ復活であり、真のいのちなのであり」(ヨハネ11,25)、キリストとつながっている者は、すでに復活している(ヨハネ11、26)と私たちは信仰告白する。

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