わたしたちキリスト者はボランティア(Volunteer)活動にかかわるとき、信仰から動機付けを得ますが、その原点はイエスが語った「よきサマリア人のたとえ話」に見出され、その中でイエスが説いた隣人に対する思いやりを学びます。そしてそのイエスの言葉から刺激を受けるわたしたちは「だれが隣人なのか」ということを問うよりも、「自分が隣人になるように」努めます。
ルカ福音書にはこう書いてあります、「ある律法の専門家がイエスを試そうとして、『導師、私の隣人とは、誰でしょうか』と尋ねました。イエスはこたえました。『ある人がエルサレムから下っていくときに、追いはぎに遭い、服を剥ぎ取られ、傷をおわされ、半殺しにされた。たまたま、ひとりの祭司が同じ道を下ってきたが、その人を見ると、道の反対側を通って行った。ところが、サマリア地域の旅人は、そこにさしかかると、その人を見て、はらわたをつき動かされて、近寄って、傷口にぶどう酒とオリーブ油をそそぎ、自分のロバに乗せて宿屋に連れていって、介抱した。翌日、お金を宿屋の主人に渡し、『この人を頼むから』と言った。さらに、イエスは『この二人のうち、追いはぎに遭った人の隣人になったのは、誰だと思うのか』と問いかけた。律法の専門家は、『その人の痛みを分かって、行動に移した人』と言った。そこで、イエスは、『あなたも行って、同じようにしなさい』と言った」。これはボランティア活動の基本を表す話だと言えましょう。それを四つのキーワードで表しましょう。つまり、「目と足・腹と手」です。
・目とは弱い立場におかれている人を人として見る目をもつことです。言い換えれば、差別
なしに人を人としてみる目です
・足とは立ち止まる足です。というと、通り過ぎないで自分を必要としている人から逃げない
ことです。
・腹とは他人の痛みを共にすることができ、はらわたを突き動かされることです。
・手とは助けるために手を貸すことです。私たちはそのように人のためになりたいもの
です。
尚、ボランティアとは何かと議論するよりも、理屈ぬきに助けるために携わることです。この姿勢で今の世界的な経済危機のため困っている人を助けるように2009年1月13日に日本カトリック司教たちが出したアピールに耳を傾けたいです。司教たちは次のように訴えております。
「わたしたちに何ができるか、教区・小教区・修道会・信徒の団体で考えていただきたくこのアピールを出すことにしました。残念ながらいまだに失業者や路上生活者に対する差別偏見は根強く残っています。今回の派遣切りなどによる失業者の問題が顕在化する以前から、働きたくとも職がなく路上生活を余儀なくされていた人々を「怠け者の自己責任」として切り捨てる風潮がありました。しかし、野宿せざるを得なくなった状況はどちらも同じであり、合わせて
支援しなければなりません。
去る12月、世界人権宣言発布60周年にあたって、日本の司教団は人権メッセージを発表しました。「(人権についての)今日の危機的局面を打開するためには、そのすべての要因を一つ一つ根気強く取り除いていく必要があります。そのためにわたしたちは、貧しく弱い立場に追いやられ、大切な人間関係を断たれてしまっている人々、人間らしい生活が損なわれ、あるいは妨げられている人々の側に立って、この世界を見ていかなければなりません。」との呼びかけに今こそ応えていきましょう。
すでに前からその援助に積極的にかかわってきた六甲教会はこれからもその社会活動を生かしつづけますように励ましたいと思います。
J.マシア神父