夏が近づいてくると、日本では「平和」という言葉を耳にする機会が増えます。
テアド・デ・シャール神父(イエズス会)は、第一次世界大戦中、「戦争の真ん中に平和をみつけた。」と言いました。 「平和」とは何でしょうか? 社会的には、戦争がない、生活が貧困や病気等に脅かされていない、それを平和と呼ぶのでしょう。 しかし本当の平和はそういった外面的なことではなく、内面的なことであると思います。 個人の基準によって、「平和」が意味するところも異なってくるでしょう。 人の心の中の平和をみつけるのは難しい。 これは実に政治的な平和をみつけるよりも難しいことです
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キリストに出会った我々キリスト者には、キリストがいつも共にいてくださるという平和をいただいています。 しかし、この信仰による平和のうちにあるからといって、自分が正しい、だからそうではない相手を否定するということはできません。 自分と同じではない平和にある相手を否定するなら、そこにもう平和はありません。 自分の平和が相手の平和であるとは限らないのです。
若かりし頃、キリスト教こそ全てと思っていた私は、日本に派遣されて、日本人と知り合い、そうではない人々がいること、そうではない生活があることを知りました。 そして、それも素敵なものでした。 ナザレのイエスは、12人の弟子を派遣するにあたり、イスラエルにのみ福音を述べ伝えるよう弟子たちにお命じになりました(マタイ10:5)が、復活させられたイエスは弟子たちを全世界に派遣されます(マタイ28:19)。 神のひとり子であるイエスでさえ、成長の余地があったといえるでしょう。 私達はなおさらのことです。 内面的な自分の平和を押しつけるのではなく、相手の存在、考え方の全てを尊重し、認める。 ひいてはそれが世界の平和につながっていくことになるのではないでしょうか。
この夏、あなたに平和がみつかりますように・・・・。
コリンズ神父