主任司祭 桜井 彦孝
4月初旬、ほぼ半世紀振りに王子動物園を訪ねました。小学生の時には遠足や図画のクラスで度々行きましたが、今回は園内420本の桜満開宣言のニュースに誘われたからです。園内は春休みの小学生たちで一杯でした。ゆっくり座って花見を・・どころではありません。子供たちと一緒に動物を見て廻る羽目になりました。タイガース・ファンとしては、一目猛虎の姿を・・と。いました、いました!
一頭は寝そべり、一頭は狭い檻の中を歩いていました。しかし、同じ所を行きつ戻りつ、ただ繰り返して歩いているだけでした。子供たちが声をかけても全く反応を示さず、数メートルの間を往復していました。男の子たちが「このトラ何しとるんやろ」、「同じ所を歩くだけで、バカちゃうか」、「退屈やろな。」さすがに女の子たちは優しいですね。「狭い所で、かわいそうや」、「他にすることないもんね」、「遠い国から来て、淋しいと思うわ」、「死ぬまで、こんなことしてるのやろか。」この時ばかりはトラたちに不憫を感じ、仲間のいる大自然に送り返してあげたい気持ちになりました。
私は動物園を出てからも、妙に子供たちの話しが脳裏に焼き付いていました。一体、動物園のトラは何のために生きているのか。トラと云えども、いずれは死んでゆく、その一回の生命は何だろうか。命があるから、生きているだけなのか・・。ひょっとして人間も同じように、生きるだけで精一杯という時があるだろうし、退屈まぎれに何かで時間を潰しているだけの時があるかも知れない。一回しかない人生なのに、何のために生きているのか分からないまま、或いはそんな難しいことは考えないまま、歳をとれば趣味や療養に明け暮れて、寿命が尽きるのを待っているのではないだろうか。身につまされる想いでした。
昔の人は主君のために、家族のために、会社や仕事のために、学問や芸術のために、(戦時中は)祖国のために、天皇陛下のために・・。現代も、家族のために、仕事のために・・という方々が多いかも知れません。一昔前、或る勉強熱心な高校生に尋ねたことがあります。「何のために、そんなに努力して勉強するの?」「名門校に入れ、と親に言われていますから」「・・・」「僕も、良い会社に入るためには良い大学に行くことが必要だと思う」「そして・・?」「高い給料が欲しいし、かわいいお嫁さんを貰ってマイホームを建て、退職後には海外旅行をしたいし別荘も持ちたいし・・」「それから?」「それで終わり。人生で他にすることがありますか?」「・・?」今の社会は格差が拡がりつつあり、仕事に就くのも家庭を築くのもままならず、マニュアル通りの単純な人生設計を立てる人は少ないでしょう。生き甲斐を見出しにくい社会なのかも知れません。今の時代に、若い世代は一体何に生き甲斐を見出しているのでしょうか。
"心から誰かのために"という喜びは? "愛するために生まれてきた"という感動は? と尋ねてみたくなるのですが。
私たち信仰者は、家族や友のために、小さな人々のために、人類社会のために、そして神の栄光のために・・という崇高な生き方を願っていると思います。パウロは言っています。「私たちの中には、誰一人自分のために生きる人はなく、誰一人自分のために死ぬ人もいません。生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」(ローマ14章)。主のために生きるということは、実は「主によって生かされている」という更に大きな喜びに繋がっているのです。「何のために生きるのか」という問いは、「何によって生かされているのか」という問いと切り離すことが出来ないと思うのです。自分の力だけで生きているのではなく、何かによって誰かによって生かされているからです。あなたは"何によって"、或いは"誰によって"生かされているのでしょうか?