ホーム 六甲教会について お問い合わせ
自分はどんな人間だろうか?

 今年は、カトリック作家として日本の教会に大きな貢献と示唆を残された遠藤周作氏の帰天10周年を迎えています。同氏は教会の内外で多くの人々に慕われ愛された方であり、周作クラブには今もファンが絶えないそうです。奥様が長崎市外海(そとめ)町に建てられた文学記念館は、殉教者が続出した紺碧の海からそそり立った丘の上、まさに著作『沈黙』の現場にあり、その記念館に近い「沈黙の碑」には彼の祈りとも嘆きとも思われる言葉が刻まれています。「人間がこんなに哀しいのに、主よ、海があまりに碧いのです」と。『沈黙』を読まれた方は、この意味がよくお分かりになることでしょう。もう20年以上前になりますが、同氏の講演を聞く機会がありました。開口一番、「自分が“おばかさん”や“ぐうたら人生”等を書いているのは、出来る限り読者層を増やし、引いては聖書やキリスト教をテーマにした作品を読んでいただき、最後は教会に入らっしゃい!入らっしゃい!と誘うためですよ」と。そして、「自分を知る」という難しい課題をユーモアたっぷりに話されたのです。書く時も話す時も、同氏は人間の救いを求めて止まない信仰だったと思います。

 「自分を知る」、こんな難しい課題は此の世に二つとはないでしょう。そもそも人間とは、自分にとって自分自身が謎である存在だからです。自分とは一体何者なのか?人間は理解し尽くすことが出来ません。しかもこの問いは、一回限りの人生とは何?此の世とは何?神とは?という永遠の課題にも繋がって行きますが、その探求と悟りのために生涯を捧げた哲学者や宗教家も少なくありません。しかし、遠藤氏の講演は私たち凡人にも分かるような、平易な内容でした。

 即ち、(1)まず私たちは自分の外面・内面を少しずつ知りながら成長して行きます。他者との出会いと交わりの中で、自分に備わっている親ゆずりの面、秀でている面、弱く劣っている面、性格や心理状態、感情の動きなどに気付き、大体自分はこのような人間だと知ることになります。そして歳とともに変化し成長して行く面もあるでしょう。

 (2)しかし、他人から“あなたはこのような人ですね”と指摘されることがあります。自分では気が付かなかった面であり、“そう言われれば、そうかな?”と受け入れたり、或いは“自分にそんな面はない”と反論する時もあるでしょう。家族や親友間では通常正しい指摘がなされますが、社会ではお世辞もあれば逆に過少評価を受けることもあります(経験者は語る!)。良きにつけ悪しきにつけ、自分の噂が伝わってくることもあるでしょう。いずれにしろ、他者にはそのように写っているのだろう・・と自分の理解が広く深くなって行きます。

 (3)ところが、まだ自分を知り尽くしたわけでなく、最後に棺桶の中に入った時にすべてを知ることになるでしょうと。家族や友人達が涙ながらに棺に寄りかかり、私の顔をまじまじと眺めながら本音で言ってくれるからです。酒飲みだったなー(苦労が多かったのだろう)、気が小さいが正直者だったね、辛い病気によく耐えたなー、気難しいところもあったけれど根は優しい人でしたね、大器晩成型だったなー、楽しい人でした・・等々。私の人生をねぎらいながら、異口同音に“ありがとう。是非またお会いしたい。待っててくれよなー”と言ってくれる、それらの言葉の総和と前記@Aの総合計が私なのです。私は棺桶の中で泣き笑いしながらも、確実に自分のすべてを知ることになるのだと。[私は講演を思い出しながら要旨を書いてみました。が不思議なことに、その奥には深い意味が隠されていたことに気付きました。棺桶に入って、やっと分かる。自分とは人間とは、愛されている者、救われる者なのだ!と。 しかも、しかも・・・?]

桜井彦孝神父

ページ先頭へ ホームへ
 六甲教会について お問い合わせ
(C) Copyright 2002 Rokko Catholic Church. All Rights Reserved.