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早春の陽ざしの中を・・ |
教会の典礼は3月1日「灰の水曜日」に四旬節を迎え、私たちはミサ中に頭(こうべ)を垂れて灰をかぶりました。『あなたはちりであり、ちりに帰って行くのです』という言葉を受けて人間存在の有限なる命を確認し、或いは『回心して福音を信じなさい』という言葉を聞き、へり下って神に立ち帰りたいと熱望しました。四旬節というこの40日間は復活徹夜祭に洗礼を受ける方々のための準備期間として始まったのですが、同時に神の子イエスが40日の間、荒れ野で誘惑を受けられたことを思い起こし、祈り・断食・愛の奉仕に励む習慣が初代教会の時から始まりました。その信仰の歩みの中で、教会共同体は洗礼志願者と共に、主キリストが十字架上の死を通って復活のいのちに過ぎ越された“救いの業”を黙想し、永遠の命に生かされる喜びを渇望します。私たちがいただいた信仰の恵みと力は、まさにこの渇望と悲願から出ているのです。その救いに到るまで、神様は愛する一人ひとりの人間を全人格的に鍛えて下さるのだと思います。時には優しく、時には厳しく、あたかも人間の親が子供の幸せな未来のために心を込めて鍛えるかのように・・。 或る時、仏教の高僧が話された短い説法をラジオ番組で聞いたことがあります。「小さな虫が同じ虫仲間と共に、何不自由なく楽しく生きていた。その虫は自分たちの虫の世界に満足し、慣れ親しんでいたので、他の世界があることなど考えもしなかった。ところが或る日、虫は少し遠方まで飛んで出たためか、突然大きなトンボがやってきて、パクッと食べられてしまった」と。これだけの話ですが、いたく感動したことを覚えています。私たちは洗礼の秘跡を受けたとき、全ての罪が許され神の子供として永遠に生きる恵みをいただきました。この世界にありながら、永遠なる神に向かって歩む者となったのです。トンボに食べられるまでは自分たちの世界に閉じこもっていた、この小さな虫ではなくなったのです。“永遠に救われる命”は、人間存在の究極の救いを意味しています。人間は死に向かって造られたのでも、消滅するために造られたのでもありません。生きるために、しかも“永遠に生きるために”造られたのです。ですから、その人間の救いを成し遂げて下さったイエスの愛以上に大きな愛はありません。それは神の子としての全てをゆるす愛、へり下って自分を無にする愛、他者の幸せと成長を願う愛、十字架を最後まで担う愛、自分を与え尽くす愛、見返りを求めない無償の愛だったのです。イエスは、人間の救いを望まれる神様の真実を示されたのです。 しかし、私たちは弱く罪深い人間なので、その信仰が時には形だけの信仰に留まったり、生きる確信になっていなかったり、お金やモノに心を奪われたり、時には迷いや疑いを感じたり、神様のことを忘れがちになったり、挙げ句の果ては自分さえ良ければという狭量な生き方になったり・・。つまり、私たちは日々“不信仰へのいざない”を受けているのです。時には、それが“いざない”であることさえ感じないほど、今の世界は神感覚を失っているのではないでしょうか。教会が四旬節を定めた理由は、この辺にあると思います。これからの40日間には、私たちの人生が神に向かって、永遠に向かって歩んでいることをしっかりと心に留めたいと思います。次第に物忘れが進み、電気を消し忘れたり、鍵をどこかに置き忘れたり日々認知症に悩む私たちでも、永遠なる神に向かって生きていることだけは忘れたくありません。人生全体がそこに向かっているのですから・・。3月になり早春の明るい陽ざしの中、悠々と心おおらかに地上の旅を続けましょう。 「おもしろや今年の春も旅の空」(芭蕉)。 桜井神父
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