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カリフォルニアを旅して

. 今年1月中旬から約1ヶ月、休暇を利用してカリフォルニアを旅することが出来ました。合衆国の一つの州でありながら、日本の国とほぼ同面積をもった広大な州である。人口は3,000万人ぐらいだから、とにかく広々しているように感じられる。南隣りのメキシコから、またアジア諸国からの人々も多く、サンフランシスコやロサンジェルスの大都会は、観光客を含め華やかな国際社会を形成しているように見える。が、一般市民は地価の安い郊外から1時間以上の通勤者が多く、一人一台ずつ車を運転するので高速道路の朝夕のラッシュはストレスの象徴のようであった。どこの国でも、毎日朝から夜まで働いて生計を立てるのは大変な心身消耗なのだろう。大昔洞穴に住んで農耕や狩猟で糧を得ていた原始時代から、今日ただ今も人間は同じ苦労をしているのかも知れない。スーツを着、車に乗り、電話を使い・・、確かに文明の進歩という大きな相違はあるとしても、人間の生きる姿勢や心情は昔も今も余り変わっていないように思われた。国民性の違いと云えども、日本ではお茶碗でご飯を食べるが、アメリカではお皿でライス(?)を食べるという程度の違いではないだろうか。

 いつの時代でも、人間は人と人との関係、自然環境との関係、そして神さまとの関係の中で生きている筈なのに、競争社会の中にはどうも神さまとの関係が見えて来ない。むしろ、アメリカ政府や大企業は石油・鉱石などのエネルギー資源を求めて、自然界への挑戦や他国への利権獲得に向かっているようだ。国が進めている宇宙開発も同じ線上にあるのではないだろうか。車社会を旅していると、ついついそのような印象を受けてしまう。富む者はさらに豊かさを望む。その欲求こそ資本主義経済を動かしている原動力かも知れない。弱者・病者・貧者との交流や分かち合いは、教会の祈りであり使命であると思われる。カリフォルニア州は他国籍の方々を含めてカトリックが強く、信徒の終身助祭もいれば小学校を併設している所もあり、教会が生き生きしていると感じられる。訪問した教会ではミサの10分前から、その日の聖歌演奏と詩編独唱があって祈りの雰囲気がよく準備されていた。そのためか、ギリギリに聖堂に駆け込む人が少なく、ミサ中の賛美歌も良く歌われていたのは学ぶところ大(?)であった。「主の祈り」と「平和の挨拶」は和やかで、多民族がキリストのうちに一つに集まっていることが実感できる時間であった。ミサは人々が国籍を超えて共に生きて行く力になっているようでした。私もミサに参加する喜びを味わったけれども、会衆席にいると献金袋が廻って来るのを忘れていました・・・。 アメリカの教会は日曜日のミサ献金を主な財源としているので、大きな袋が廻って来ました。

 今回は人生最後のアメリカ旅行になるかも知れないという想いもあったので、是非一度は行きたいと願っていた「ヨセミテ国立公園」を訪ねた。サンフランシスコから南東にバスで4時間、延々と続くアーモンドの畑を過ぎ、その昔ゴールド・ラッシュで人々が一攫千金を夢見て押し寄せた場所を通って、ヨセミテに着いた。シェラネバダ山脈の一部で、東京都の1.5倍の広さを誇る公園であるが、中央には約750メートルの落差で三段になった滝があり、1,100メートルの垂直に伸びた一枚の花崗岩がそびえている。ロック・クライミングには5日間もかかるらしいが、命賭けで登る登山家が後を絶たないと。この公園は3億年前は海底であったと言うから、地球には海中にも山中にも人間がまだ知らない神秘が一杯存在しているのである。私はその大自然に感嘆し圧倒されるだけの小さな存在であったが、神さまによる創造のごく一部分を垣間見た思いであった。太陽が沈み夜の帳が下りると、谷間を覆っていた空一面に星屑がキラキラと輝き出した。今にも神の愛が地上に降って来るかのようでした。

桜井神父



 



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