人生は旅のようなものです。そして私たちにとっては巡礼です。
旅立っている私たちは、様々な風景に出会い、幅広い人々と出会っていきます。豊かな人々から恵まれていない人々・・・・。私たちには旅人として目的がありましょう。どのようにして人生を完成していくか、その場その場に開かれた心で旅立って行きましょう。
山登りをしている時、人々は挨拶を交わし、行く先の道の状態を教えあい、見ず知らずの人同士でも助け合っています。しかし同じ人が自分の家に戻ってくると、挨拶はおろか日常生活の中では優しさに欠ける様な行動をとります。これは大きな疑問です。どうしてそうなのでしょう。理由の一つは相手に慣れてしまっているからでしょう。
毎日会っている当たり前の相手、その相手のいいものが見つからない。相手を認めたくないと思っているうちに、相手の持つマイナスのものが目立っていく不快さが増していきます。自分が作る壁で、相手から訪れる素晴らしいものを入ってこないようにしてしまっているのです。壁を崩し、美しいものを見出し、気づき、認めていくことが大切です。
人は亡くなった後にその人のいいところが分かり、その死を惜しみます。しかしそれでは遅すぎるのです。
エマオへ向う弟子達が、ずっと一緒に旅を続けてきたイエズス様に気付くのは、旅の終わり、ようやく食卓についてからでした。でもその時では遅いのです。イエズス様はもうそこにはおられなかったのです。
人と共にいる時を大切にしましょう。そうすれば、その後には、ただ素晴らしい時を過ごしたことを知るだけです。偏見・優越感等の差別や区別する心を乗り越えれば、何もない時にそこには何かが"あった"ことを悟るのです。
私たちが失った時間の中で、移り変わっていく社会の中で、神様・イエズス様は私たちと一緒に居て下さいます。時間と共に歩む私たちは、その時々のイエズス様との出会い、過去でなく、将来ではなく、イエズス様との"今"の出会いを重ね、互いに手を差し伸べ、相手と波長を合わせ、歩みを進めれば、辛い旅も楽しく、担う重さも軽くなり、疲れにくい旅となりましょう。
God bless you.
祈りのうちに。
バレンタイン・デ・スーザS.J.