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雑感 『宗教観』

私たちは日本に生活し日本の習慣の中で育ちました。したがって、良いことも悪いこともそのようなものだと考えて、何の不思議にも思わないことがよくあります。その中で神様とのかかわりについても日本流?の習慣に染まってしまって、見過ごしていることもあるのではないでしょうか。

例えば、宗教を信じるということは、「偉い宗教家に導かれて(よい説教を聞き)正しい生活態度を身に付けることだ(よく社会奉仕をする)」とか、「司祭や神職に家族や世界の平和のために祈っていただく。(無事息災を祈り、お払いをしてもらう)」「結婚式や葬式で、これからの生活のうえに恵みを願いあの世で平安に過ごせるように祈っていただく(司式をして祈ってもらう)」
このような考えで宗教を見るのはごく当たり前ではないでしょうか。何か間違っているとか、よくないと言うつもりはありませんが、これがわたしたちの信仰でしょうか?と少し立ち止まって考えてみたいと思います。

わたしたちの信じる主イエスは「目を覚まして祈りなさい」といわれました。
これは、わたしたちに言われた言葉です。決して「祈ってもらいなさい」とは言われなかった。キリスト者は誰でも司祭に祈ってもらうだけではなく、自分でも祈ろうとします。また、キリスト者でなくても自分の家のお墓の前や神社では祈ってもらうばかりでなく手を合わせて祈ります。

こう考えると何か「自分が祈ろうとする祈り」と「祈っていただこうと考える」間には少し違いがあるのかもしれません。わたしたちには専門家に祈っていただくと、何か特別な恵があるように考えがちなのかもしれません。知らず知らずのうちに、わたしたちの希望をかなえてもらうのが特別な恵であって、その願いを専門家にお願いしようとしているようです。『神の恵み』とはそういうものなのでしょうか?

わたしは、専門家を否定しているわけではありません。特にカトリックの司祭は、自分の生涯をかけて神の国の方向を指し示すパイロットか、教会という船の行くへを見張る見張り番の役割を担われた方だと思っています。決して結婚式や葬儀の司式者や司会者だけではないはずです。

イエスは「神はあなた方が願う前から、あなた方に必要なものはすべて知っている」と仰せになりました。一方では、「求めなさい」「たえず祈りなさい」と言われました。では何を祈ればよいのでしょうか。弟子たちもどのように祈ればよいのですかとイエスに尋ねました。そして、主の祈りを教えていただきました。一方、「主よ主よという者が皆天の国に入るのではない」とも言われました。

私たちは皆 「宗教に何を求めるのか?」「信仰とは何だろう?」「祈りとは何だろう?」と考えてみる必要があるのではないでしょうか?

私には、まだこれだという自信はありません。でもそろそろ考える時を迎える年齢になりました。ご一緒に考えていただけませんか。

投稿 藤原 泰


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