日常生活の中での信仰体験
或るとき、イエスは祈るために3人の弟子ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて高い山に登りました。しかし、弟子達は目の前でイエスの姿が変容し衣は真っ白に輝いたのに、眠くてたまらなかった。ペトロが眠気をこらえていると、栄光に輝くイエスとモーセとエリアが見えたので何かを言うのですが、自分でも何を言っているのか分らなかった。すると雲が現れて、「これは私の子、これに聞け」と言う声が聞こえた・・と書かれています(ルカ9章など)。この記述は弟子達の信仰体験
―イエスの復活をかいま見る、という特別な恵みの体験 ― だったと言われます。本当かな?事実かな?と疑いたくなるかも知れません。しかし、聖書は神に出会った人々(預言者や弟子達)がその信仰体験を後世の人々に伝えるために、限りある人間の言葉で、また象徴的な言葉や比喩を用いながら書いたものです。と同時に、聖書は人間を信仰という偉大な恵みに招くために、神様ご自身が書き送って下さったラブ・レターでもあると思います。聖書の中に、人知を超える何かが輝いていることを感じ取れるなら幸いです。以前イエズス会の総長が全世界の会員に向けて言ったことがあります。「現代人は神体験
(experience of God) が曖昧である。しかし、その体験こそ私達の生活と働きを真に生き生きとさせるのである」と。多くの聖人や神秘家が言うように、神体験・信仰体験のために心の準備や望み、そして霊的感覚のするどさを養うことが必要でしょう。即ち、毎日の生活や仕事に埋もれながらも何処かで埋もれていない、と云う精神的な超越性や人生への達観、精神集中や心の余裕が必要ではないでしょうか。
具体的に、いろいろな祈りや信心を通して、また人々や自然との出会いの中で・・、まずは一つのことに深く留まってみましょう。例えば、@目が覚めるとすぐに、一対一で神の前に座ってみる。ただ感謝の念をもって自分を神の前に置く。A山に登った時に、目を天に向け両手を挙げて、"神よ!"と呼びかけてみる。世界中の人々を想像しながら、主の祈りをゆっくり唱える。B苦しい思いを抱く時、キリストの十字架を想起しながら、自らも十字架の姿勢を取ってみる(繁華街など外ではしない方が良いでしょう。責任は取れません)。C時には早起きをし、祈りながら教会の早朝ミサへと向かう。D主日ミサに積極的に参加できるよう、大きな声で神への賛美を歌ってみる(甲子園球場での
♪六甲おろし♪ の大合唱に引けを取らぬように)。聖歌を一緒に歌っている時、私達は救われている神の民であるという感動を抱くことでしょう。また、ご聖体を受ける時(この変哲もない小さなパンはキリストの体・永遠の命の糧であると堅く深く信じながら)、アーメンと信仰告白をして拝領する。E夜空の星をじーと眺めてみると、何万光年も前に光った星屑が目の前にある。気が遠くなるような永遠の世界に心を馳せる。F朝日が昇り夕日が沈むその雄大な光景を見ながら、人間の小ささと神の栄光を観想する。また、大自然や美しい花々を、じーと眺めてみる。もし愛する故人を思い出すなら、小声で呼びかけたり、天国での状態を想像してみる。過ぎ去って行く此の世とは一体何だろうかと思い巡らす。G機会があれば、家族や友人の臨終に立ち会う(マザーテレサがされたように・・)。インドの故デメロー神父は、「自分自身が棺の中にいる状態や自分の葬儀の場面を黙想する」という祈りを紹介しています。H1年に一度くらい黙想の家に行き、沈黙のうちに祈りの時を過ごしてみる(私は高校生の時3泊4日の黙想会に行き、人間は神を探し求めるために生まれてきたのではないかと感じました。まだ純情な受験生でしたが、長い沈黙のお陰で人生が神秘的になりました)。I神の言葉が自分の血となり肉となるように、毎日聖書を読み込んで行く(私は或る時期、通勤電車の中でも時間が惜しい程聖書に魅入られて読んだことがありますが、それ以来こんな道に入ってしまいました)。求めて読むならば、きっと心にしみ込んで来ます。そして、教会の聖書・信仰講座や祈りの道場等々に参加したいという望みが湧いて来ることでしょう。(最後に本音が出て)教会のコマーシャルになりましたが、信仰という神の恵みは大きな喜びであり、人間を内面から生かす力であると思います。
桜井神父