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信徒による祭儀について

第二バチカン公会議で大きな柱とされた典礼刷新については、日本でも大変革が起こりミサは形式的には大きく変わりましたが、信徒の意識は公会議の精神をしっかり読み取っているのでしょうか。「日曜日のミサは信者の義務だから…」とか、「何年もの習慣だから…」などミサの意義について考えることはなかなか難しいように思えます。
しかし、神戸地区の各教会で主日に集会祭儀が実施されるようになって、早や4年目になろうとしています。集会祭儀はミサではありません。ミサの代わりでもありません。幸いに六甲教会では、主日にはまだミサが捧げられています。しかし、高齢化と司祭志願者の減少で現状を維持することが難しくなり、六甲教会でも主任司祭は苦労しておられます。
この時代になって、信徒のミサに取り組む意識改革は緊急の課題といえましょう。私たちは、典礼総則に述べられているように、意識的、行動的、効果的に祭儀を捧げることが出来るよう学習し、典礼に関するセンスを身につけておく必要があります。この学習と訓練は、司祭の指導のもとで信徒自身が自発的に行う必要があります。全ての祭儀を司祭が司式して、信徒にゆだねられた祭儀の司式もしないのでは、今までと同じで信徒の自立は出来ません。信徒には、「通夜」や「み言葉の祭儀」「命日祭」などかなりの祭儀がゆだねられています。「集会祭儀」もその一つです。
皆さんの中には、ロザリオの先唱や十字架の道行きの先導をされたことがある方がおられると思いますが、やはり経験しないと効果的に祭儀を司式するのは難しいものです。うかうかするとこのロザリオや十字架の道行きでさえ、司祭がいないと出来ないようになってしまう恐れがあります。

また、私たちは「主の日に集会する」意味を考え直さないといけないと思います。「ミサ典礼書の総則」には、「主の日に主の復活を想起し、過ぎ越しの神秘を祝う。」そして、第1章の最初に「ミサは教会にとっても、信者一人一人にとっても、キリスト者の生活全体の中心である。」と書かれています。
「主の日のミサ」は、「主の復活を思い起こし、ナザレのイエスはキリスト(救い主)であった。」「イエスは私たちにこのように話されたではないか?」と聖書を分かち合い、祈り、「イエスが約束してくださったご聖体の恵みに預かる」そして、「キリスト者として日常生活に派遣される」ために信徒が集まる場と言えると思います。キリスト者にとっては、「主の日」は太陽暦の日曜日(Sunday)=休日とは違った意味があります。
それほど大事なミサが出来なくなり、それでも「主の復活を想起する集会を開きたい」と願った時、集まって、み言葉の祭儀を行い、ご聖体の力をいただくことが許されているのが、つまり「主日の集会祭儀」です。

六甲教会に自立した信徒が多くなれば、いきいきした共同体を作っていくもととなるでしょう。また、主日の集会祭儀を実施しなければならないときに備えて、年に数回司式者の養成をかねての集会祭儀が行われます。特に四旬節には共同体の回心を促す目的のもとに、毎金曜日集会祭儀と十字架の道行きを行います。是非信徒の集会祭儀に参加して、私たちの共同体としての祭儀が効果的に行われるようご意見をいただきたいと思います。

今年の四旬節の集いは、
2月27日、3月12日、3月19日、3月26日の10時から4回
集会祭儀と十字架の道行きとして行われます。

文責 藤原 泰


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