[四旬節を迎え、信仰の深みへ・・]
時の経つのは早いものです。今年もまた四旬節が巡って来ましたが、そのうちに復活祭が来て、あれよあれよという間に夏が過ぎ、やがてクリスマスと新年がやって来るのでしょう。(気がはやい!早すぎるよ。確かに・・。しかし)地上の歴史の真只中にいる私たちは、信仰をしっかり深めておかないと、めまぐるしく変化していく現代の世相や社会現象に流されてしまうでしょう。世相の変化と云えば、日本では学習塾やケータイ電話の普及、少子化・高齢化が進み、精神医療の必要性や老人ホームの充実等が求められています。他方では、宗教性が希薄になりつつあるのではないでしょうか。政治や経済界も大きく揺れており、国際化・複雑化の道を辿っているようです。これら一つ一つの現象には、それぞれの動機や理由があると思います。しかし、私たち個々の人間はその時代その時代の大きなうねりの中で、時には係わり
時には翻弄されながら、ただ一つの時代だけを通り過ぎて行くのです。人類の歴史、一人一人の生涯とは一体何でしょうか?
俳人・高浜虚子は、伝統芸術としての俳句の"深さ"に留まりながらも常に新しさを求め、「深は新なり」という境地に辿り着いたと云われます(以下は、お孫さんに当たる俳人でカトリック信徒・稲畑汀子さんの解説参考)。この境地は自然を・・自己を・・深く深く掘り下げていくことによって、新しさを発見する信仰の喜びに通じていると思います。虚子は、花鳥風月をありのままに写生しながら(それを詠んでいる)自分自身を含めて、広く"自然"を捉えていたようです。"この自然"の深みへと分け入る時に、驚きと喜びをもって"新しい神秘"に出会うのではないでしょうか。宗教家のような虚子の俳句をゆっくりと味わってみて下さい。
「人の世も 斯く美しと 虹の立つ」昭和21年、71歳の作。その3年前、虚子は俳句仲間で肺病を患っている方々(天涯孤独の青年と母一人娘一人の親子)を見舞いに行くが、互いに別れ難い。3人は病を押しても、句会に向かう虚子の列車に同乗してついて行く。彼等は、その車中で虹を見る。敗戦から1年足らずの生活も苦しく世相の厳しい時であったが、虚子の深い心は俳縁で結ばれた人達の情の暖かさと優しさを思い出し、こんな美しい句を創出したのである。殺伐とした時代でありながら、此の世は・・、人間は・・救われているのであるという"深い喜び"が伝わってくるようです。
「虚子一人 銀河と共に 西へ行く」昭和24年、ようやく戦後も落ち着き平和へと向かう時代を感じ取った頃でしょうか。地上から夜空を仰ぎながら瞑想していると、天は西へ動き、地球上の全ては東へ動いている。即ち、地球の自転を肌で感じながら、虚子の心は壮大な銀河の美しさで一杯になる。それ以外の人も物も消えて行き、自らも地球上にはいないかのような神秘体験をする。或る心理学者は「瞑目して大地に座ると、地球の自転を感じることが出来るだろう・・」と云うようなことを書いているそうです。確かに私という人間は、毎分毎秒自転しながら太陽の周りを公転している(・・まさに宇宙の中を遊泳している)地球上に存在しているのです。私は地球に乗って、広大な宇宙を旅しているかのようです。その意識は、"私という一個の人間は如何なる存在なのか?"、"神は何処(いずこ)にいますのか?"という信仰の原点に導いてくれることでしょう。
虚子は常日頃"死"と向き合っていたと云われます。私も(否、どんな人間も)永久にこの地上に留まることは出来ず、神様がお決めになる時までです。即ち、私は"いつか此の世を離れる者"なのです。此の世を離れるという想いを深めていくと、不思議なことに、今の世も出会う人々も、そしてこの自然も、更にいとおしくなって来ることでしょう。イエス・キリストも常に死を意識しておられたと思います。そして、最後には重い十字架を背負いながら、潔く死に向って行かれました。人間をそして此の世をいとおしみながら、愛しぬきながら・・、死に対峙されたのではないでしょうか。
桜井神父