ホーム 六甲教会について お問い合わせ
主任司祭より(4月)

[救いの時]聖書的に表現するなら、この地上の時間には“クロノス”と云う時計で計ることの出来る量的(物理的)な時間と、“カイロス”と云うかけがえのない質的(精神的)な時間2つの時がある。この宇宙では、もうどれくらい量的な時間が過ぎたのでしょうか。人類の歴史だけでも300万年ぐらいと言われており、私達が生きている“今という瞬間”は刻一刻と秒針が刻まれながら、常に未来の時間へと過ぎて行きます。若い二人は青春の時間を止めてしまいたいとか、芸術家なら感動のひと時にもっと浸っていたいとか、愛する者との別れはもっと時間が欲しいとか、人間は非情な時間を恨めしく感じることがあるでしょう。逆に苦しい時は、早く過ぎ去って欲しいと感じることもありますが、時計の針は容赦なく同じスピードで動いています。鶴は千年、亀は万年。1億年前の恐竜の化石が見つかった・・等と云われるように、宇宙の歴史は過ぎて来ましたし、また過ぎて行くのでしょう。

しかし、量的な時間の中にあっても、一人一人の人生にはかけがえのない、忘れ得ない程の貴重な時(カイロス)があります。出会いの時、絆が深まる時、別れの時、涙にむせぶ感動の時、人生の重大な転機になるような質的な時間があります。健康で長生きした方と病気等で短く生きた方の人生を、量的な時間だけで比較することはできません。病床の3ヶ月間が、その人にとって何十年にも匹敵する程の凝縮した時間になる場合もあるでしょう。「天の下のすべての事には時がある。生るるに時があり、死ぬるに時がある。・・泣く時、笑う時。・・戦争の時、平和の時」(旧約コヘレト3章)。今まで生きていて良かった!と幸せを感じる時もあれば、逆に生きるとはこんなに哀しいことなのか!と涙する時もあるでしょう。しかし、私の心の奥底に深く刻まれ、人生全体に意味を与えるような不思議な時間・・。それは神が与えられた時間であり、神が導いておられる祈りの時なのです。その感動に、しばし立ち止まることが大切ではないでしょうか。質的な時間(カイロス)は神と出会う時であり、神ご自身が人間を愛し人間を救われる“神の時間”のように思われます。

『心の深みへ』と題する河合隼雄と柳田邦男の対談集には、面白い内容が書かれていました。即ち、人生50年と言われた時代には戦争が相次ぎ結核病が蔓延し、死というものが常に目の前にあった。祖父母は自宅の畳の上で、子供や孫の前で死を迎えていた。また、出征前の別れの宴は臨終前の会話に似ていたと思われる。人間の絆がもっと深く結ばれ、命が余りにもいとおしく感じられたことでしょう。ところが人生90年の時代になってくると、死の意識が日常生活から遠ざかり、家族間でも友人間でも死を忘れて、好き勝手な会話をしている。死が生活の場から離れ、病院で管理される場合が多くなった。残念ながら、現代人は死に直面した時だけ真実な対話が出来るという奇妙な状態にあり、“覚悟のない時代”という様相を呈している。医者は生きている体を、お坊さんは死んだ体を世話するけれども、人間がこの世を離れる時(カイロス)を扱っていない。人生の盲点ではないだろうか、と。

しかし、私達の信仰はイエスの受難・死・復活と云うカイロスに焦点が絞られています。イエスは常に死を意識しておられたと同時に、“父なる神と共に永遠である”という意識をもっておられたと思います。だから、イエスの教えとご生涯は永遠に通じる真理だったのです。教会はこの4月聖週間から復活祭の典礼を通して、救い主イエスが十字架上の死から復活の命へと過ぎ越して行かれた、その一回限りの救いの時にあずかります。この世を離れるのは全ての人に共通することですが、それは“死から命へと過ぎ越す時間”として、永遠なる神に決定的に出会う時(カイロス)なのです。その時、もはや何事も過ぎ去らない“永遠に今”という時間に入るのではないでしょうか。

桜井神父
「主任司祭より」一覧へ
ページ先頭へ ホームへ
 六甲教会について お問い合わせ
(C) Copyright 2002 Rokko Catholic Church. All Rights Reserved.