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クリスマスはめでたい時だろうか?

この2年間のクリスマスを祝う前の世界の状況は、あたかも悲惨な出来事によって導かれたように思われる。2001年のクリスマスは9月11日の米国の同時多発テロの事件で、またそれによって引き起こされたアフガニスタンのタリバンに対する米国の攻撃は、昨年のクリスマスに暗い影を落とした。その時から、米国始め世界中の国々は、テロとの戦いを宣言して、人々の心に新たな「メッセージ」を広げていく。それは、「テロの恐怖感から自由になろう」という新たな連帯感で世界中の人々の心を一つに結んでいるような気がする。不思議なことに、テロの脅威に対して、「苦しい時の神頼み」の精神が高まってきて、宗教や信仰と関係なく、多くの人々は普段神を拝まぬくせに、大きな苦難に直面すると、神に祈って力を借りようとするように見える。

ところが、一体になりつつある人々の希望は今年の10月12日の「バリ島での爆弾テロ」で新たな挑戦を受けた。バリ島のテロ事件もまた、クリスマスのシーズンに悲惨な思い出を刻んだ。180人の命を奪ったテロによって、再び人々の怒りが呼び起こされた。今回のバリ島のテロは世界中の国々にまた大きな影響を与えた。テロに対する攻撃の声はますます高まり、イラクの問題がテロの脅威に対する世界中の人々の恐怖感を抑えるための「場」になっているとも言えるだろう。国連の決議によって、イラクは「無条件」で国連の査察を受ける立場に立たされている。改めて考えてみると、昨年は、アフガニスタンを攻撃することによって恐怖感は抑えられた。今年はイラク問題をクローズアップすることによって抑えられようとしている。来年はどこであろうか。

2002年前のイエスの歴史を振り返ってみれば、実際に現代と同じ状況があった。幼子イエスが将来ユダヤの王になるという予言を聞いたヘロデ王は恐れ、ますます自分の恐怖感から解放されたいという思いにかられて、彼はベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子をひとり残らず殺すようにと命じた(マタイ2:16〜18)。ヘロデの王の恐怖感から新たなベツレヘムの人々の恐怖感を引き起こし、結果としてはイエスの「喜ばしい」誕生の知らせの代わりに「悲惨な」知らせとして人々の心の中に印象を与えた。

当時のイエスの時代と同じように、現代世界の状況においてクリスマスの祝日は本当にめでたい時と言えるだろうか?その知らせは真に喜ばしいことであろうか。世界の状況を見ると、そのような疑問点を抱える人々は少なくなく、人々の恐怖感や怒りも高まっている。それこそテロを企てる人や団体の意図するところではないか。彼らは人々の心に恐怖感を与えるというテロの目的を達成するために、「聖なる」シーズンをうまく選んでいるのではないだろうか。

イエスの誕生は「平和」をもたらすより、むしろ私たちの心に「闘い」や「対立」を呼び起こす意味を持っている。その対立とは何だろうか。私たちは何を恐れるべきであるだろうか。テロや戦争などによって生み出された「恐怖感」を抱いたままに私たちの日々の生活を送っているとしたら、おそらく私たちは「人間の業(わざ)」を恐れてしまうだろう。そして、このような恐怖感の中にいる私たちは互いに恐れを与え合い、互いに復讐や憎しみを抱いてしまう。

しかし、私たちの恐れる心を神の方に向けていけば、私たちすべては神の被造物であるから、私たちが恐怖感の内に溺れてしまうのを神が望まれるはずはない。そのような神の寛大さ、憐れみ深さ、ゆるしを伝えるために、イエスは私たちの「世界」にお生まれになった。これこそ、クリスマスにおいて祝うべきところであり、本来のめでたいシーズンの意義である。確かに、イエスがこの世に来られたことによって、テロや戦争はなくなるわけではない。しかしながら、現代の世界の人々がイエスが述べ伝えられたメッセージに心を開いたら、きっと人間を苦しめる様々な脅威はなくなるに違いない。そのような希望がクリスマスを迎える私たちの心に満たされれば、「クリスマスはめでたい時だろうか?」という問いかけはもう要らなくなるだろう。

(バンバン・ルディアント神父)
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