10月中、朝のNHKニュース番組で連続的に「失敗学」という課題が取り上げられました。その中に、様々な失敗の経験を乗り越えて、新たな第二の人生を迎えようと励まし続けている八起き会の話しがありました。「会社は失敗しても、経営の失敗のことだけで、人生の失敗ではない」と、八起き会の会長が最後に述べたメッセージです。
八起き会の会長のメッセージを一緒に聞いた桜井神父から、そのようなことを「七転び八起き」ということわざで表現すればと教えてもらいました。私は八起きの意味を聞いた時、別のことを思い出しました。それは毎月曜日に家庭や病院訪問をした時、経験したことです。毎月曜日に病院と家庭で介護の生活をしている方々を訪問して、いつも豊かな分かち合いの時間を体験させてもらいます。訪問から教会に戻ってきたら、逆に私は何か新鮮なエネルギーをいつも吸い込んで帰る気がします。八起き会の会長が述べた事実は、確に私が訪問した方々の日々の生活の中でも行われると感じています。それは、訪問先の方々はご自分の歳を積極的に迎え、その方々の人生は歳で決められるものではなく、常に歳と共に新たな人生を迎えようとするからです。
いつも訪問していたひとりの方が10月に神のみもとに召されました。3週間前に最後の聖体拝領をしましたが、その時、いつもと違って、自ら聖体拝領するために口を開けてくださり、ご自分の目で「アーメン」と応えてくださったことを覚えています。実は、あと4ヶ月でその方は100歳になりました。おそらく100歳の人生の祝いを神様と共に過ごしたいのではないかと思っています。確かに、それは私の個人的な印象に過ぎないですが、100歳のことを考えてみれば、その方はきっと様々な大切な人生を何回も体験し、「歳月人を待たず(さいげつひとをまたず)」、100年の間毎年ご自分の歳を常に大切にしながら、神にすべてをかけようと必死で走ってきたに違いありません。「本当におめでとう、長い間『歳』と共に新たな人生を迎え、今その実りをゆっくり味わってくださいね。」
では、また次回のストリーまで。
(バンバン・ルディアント神父)