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主任司祭より(11月)

[説教案―(10)祈りについて]茶道や柔道などの“道”を考えても、また教会の聖堂や十字架像を眺める時も、人間の心というものは先ず形を求めますが、次第にその形を通して、その奥にある心(本質)を求めていると思います。この地上に形の無いものはないでしょう。形は人間の心を養い育んで行きますが、その心は次第に形を超えていくものです。祈りにも、“祈りの心”と“祈りの形”があると思います。“祈りの心”とは、信仰であり、他者への愛であり、神への希望です。神に憧れ・賛美を捧げ・神に触れていただくこと、また過ぎ去っていくこの地上にある人間存在が、永遠なる神に向かって日々魂の呼吸をすることだと思います。心の安らぎや静かな感動を覚えるのは、祈りの効果と言えるでしょう。私はついついその効果ばかり求めてしまうので、神様は黙したり隠れたりされることがあるように感じています。しかし、聖女テレジアは「どんな不熱心な祈りでも、神は大変重く見て下さいます」と教えていますし、浄土宗・法然上人は「疑いながらも、念仏すれば往生す」と悟ったのですから、安心して祈りましょう。祈りは、死を身に纏った人間を神に向かって生かしてくれる力なのです。愛する人同志を、生死を越えて永遠に結び付ける絆なのです。

さて“祈りの形”には、種々な形があると思います。幾つかをご紹介します。

―体の姿勢としては、立ったり、座ったり、横になったり、歩いたり、目を閉じたり、両手を挙げたり、自分に合った姿勢を採り入れたら良いでしょう。五感(目や耳など)を使う祈りもあります。口が得意な方は口祷や歌唱も素晴らしいし、第六感が優れている方は深い祈りができると思います。

―定式の祈りとして、主の祈り、栄唱、平和を求める祈り(アシジの聖フランシスコ)など無数ですが、どの祈りも、大いなる方・とりつくしまのない御者・名状し難い神秘に向かって直接「全能の神よ!」「慈しみ深い主よ!」「父よ!(お父さーん)」と呼びかけることから始まります。

―聖母マリア・聖人たちへの祈りは、完全に救われて神のもとにおられる方々に信頼し、取り次ぎをお願いする祈りです。とりわけ、教会の母マリアへの祈りは豊かな恵みを受けるものと確信します。

―「ロザリオの祈り」、「十字架の道行の祈り」、また連祷などは、同じ祈りを繰り返しながら深みに入っていく形を取ります。

―聖書をゆっくり味わいながら、目読・口読すること自体も素晴らしい祈りの形です。

―黙想・瞑想・観想などは、沈黙のうちに神ご自身のことを想い、神との親しさに導かれて行きます。「霊操」については、バンバン神父が教会報やホームページで解説して下さっています。

―「射祷」と呼ばれる短い祈りがあります。個人的に受洗後の高校一年生の黙想会で学びました。昔取ったきねづかでしょうか、その後教会をさぼっていた時期もありましたが、射祷はなんとか続けていました。それは、両親が朝となく夜となく仏壇に向かって家族・友人・知人・病人のために祈っている姿を見て、この地上で祈りほど貴いものはないと感じたからです。「朝まだきに我が心、主を憧れて目覚む」「神よ今宵も天使を送って、安らかに眠らせて下さい」「我が主、我が神よ」「主よ、憐れみ給え」「イエズス、マリア、ヨゼフ」「我が主、我がすべてよ」「神の栄光のために」等々、そして「神様!」と呼びかけるだけの射祷も。目覚めた時、就寝の時、音楽を聞いたりテレビを見ている時、歩いている時、電車に乗っている時、運転中にも(早く天国にいけるように?)、多分一日に数十回唱えているかも知れません。或る時、突然神がそばにおられることを感じました。痛ましい出来事や人々の哀しみに接すると、「主よ、憐れみ給え」という祈りになってしまいますが、ミサ前には香部屋で「神の栄光のために」と唱えてから十字架に一礼し、いそいそと出発します。実は、ミサはこれらの多くを包含した祈りの最高の形と言えるでしょう。神に賛美と感謝(尚、ミサの解説については2000年9月〜10月号をご参照下さい)。

桜井神父
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