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主任司祭より(2月)

[病気について]2月11日ルルドの聖母の記念日に、教会は「世界病者の日」を迎えます。教皇ヨハネ・パウロ2世が1984年に苦しみのキリスト教的意味について書簡を発表して以来、教会は病者が苦しみの意味を信仰で受け止めるように、また相応しい治療と援助を受けることが出来るように祈りかつ努力してきました。シモーヌ・ベーユが言うように、キリスト教の真に偉大な点は苦しみから逃げようとするのでなく、苦しみを意味あるものとして担おうとする面ではないでしょうか。幸いなことに、私達信仰者は自分一人で担うのでなく、同じ信仰に結ばれた神の家族と共に担い合うのであり、しかも救い主キリストが一緒に担いかつ支えて下さることを信じています。「彼は我々の病いを負い、我々の哀しみを担った」(イザヤ53章)と。しかし現在、多くの方が病気回復を願って新しい宗教に入信されています。何故でしょうか?病気になると身体的苦痛激痛だけでなく、治療・薬剤・手術そして他人の世話に身を任せなければなりませんし、健常者だけで動いているかのような一般社会から離れる無念さや孤独、そして病状の悪化や将来への不安がつのってきます。こうして、人間全体が病んでいく場合が多いと思います。藁をもつかむ思いで、新しい宗教に入る方々の気持ちがよく分かります。

病気になると、人間の自然なリズムである“普通に食べ普通に眠れること”が何処かで狂ってくるものです。当たり前と思っていたこんな単純な日々のリズムが、実は自分の生命全体を健やかに維持してくれていたことに気付きます。“いのちは神から頂いたもの”という根源的な恵み以外のことに毎日あくせくし、ストレス一杯になっていたのでしょう。現代人の病気は通常、ストレスから来ると言われます。大きなストレス、長期間のストレスが人間の心身をむしばんで行くようです。自動車やコンピューターでも故障するのですから、生身の人間が故障するのは当然です。しかし、機械なら簡単に修理できるし、動物なら薬剤だけで治りますが、人間の場合はもっと複雑です。カトリック医師の書いた『病いは気から』という本は興味深いものでした。最近は心身症が増え、心療内科のように悩みを聞きながら治療することが求められています。即ち、多くの病気が心によって起こるものならば、同じように心によって病気を治したり防いだりすることも出来る筈でしょう、と著者は言っています。現代は、緊張を取る弛緩訓練・面接療法・自律訓練法・音楽療法等も研究されているようです。東洋医学に由来する鍼灸・あんま・マッサージ等も、神経を強め血液循環を正常にするのではないでしょうか。また、笑いとユーモアはガン細胞を殺す働きを秘めており、免疫力を高めるとさえ言われています。人生に希望や生甲斐を持っていると、自分の内から力が湧いてきます。心が癒されることによって、ありのまま愛されることによって、神からいただいた自然の治癒力が働くのではないでしょうか。

某神父の経験談によると、「病気はくよくよと一生懸命考えると、神経と血液循環がその局部に集中し逆効果です。むしろ、病気を忘れている時間が長ければ長い程早く治るものだ」と。漫画を読んだり、音楽を聞いたり歌ったり、バカになって病気を忘れている時に、血液は正常に流れ自然の治癒力が働き易いそうです。この神父は余程信仰が深いのでしょう。入院の度に、漫画の本をどっさり持ち込み、沈んでいる見舞客を迎えると逆に笑わせたりしていました。そして、もっと驚いたことは病者を訪問した時に聞かされた信仰告白です。「神様から、病気というプレゼントをいただきました」「こんな静かな祈りの時間をいただくなんて、勿体ない」「病気になって始めて、他人の苦しみ哀しみが理解できた」「私を世話するために、バラバラだった家族の気持ちが一つになりました。これで良かったのです」と。この方々は、病気や試練を神のはからいとして受け止められたのでしょう。「神は万事が益となるように働かれる」(ローマ8章)。病者をお見舞いすると、教えられることが多いですね。人間の幸不幸は病気になるか否かよりも、神への信頼があるか否か、その苦しみを一緒に感じ共に担ってくれる人がいるか否かに掛かっているのではないでしょうか。人間の命は神から受けた永遠の命であり、その命は一人で生きているのではありません。愛する者同志が永遠に共感して生きていくこと、それが人間の究極の幸せであり渇望であると思います。

桜井神父
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